昭和52年02月21日 朝の御理解
御理解 第66節
「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる」
ここで信心をさせて頂くものは、いわゆる、勝手なものでというその、勝手な事をしない実意な生き方をさせて頂いて、成程出て来る時には日柄も何にも言わずに、いわば神ながらに、出て来ておるので御座いますから、ね、途中もやはり日柄とか方位とか、いうならばそういう、理不尽な頂き方、思い方ではない生き方をさせて頂くという事が、神様のお心に叶う事になり、ね、
神ながらなまたお国替えのおかげを頂けると言う事は、神ながらに生まれて来て、神ながらにこの世を去っていく、神ながらに御霊の世界でのおかげも頂き、その途中もまた神ながらな生き方が出来ると言う事だと。これをまあ反対にづっと頂いて参りますとそいう事になります。どんなに知者も徳者も、それこそ日柄も何にも言わずにこの世に出て来て居りながら、途中ばっかり日柄を言う、途中ばっかりそのいうならば、人間が自分で自分を窮屈にするような、生き方をして。
そして又死ぬるときには日柄も何にも言わずに、駆けっていぬると。これが普通一般のまあ、信心のない人たちの生き方じゃなかろうかと思う。日柄も方位も何にも言わず、いわゆる私どもそれを神ながらにと頂くわけ。ですからなら常日頃ならまあ言うなら、たらいからたらいへ渡る五十年とこう申しますが、ね、そのたらいからたらいへその途中もまた、いうならばこの世を徳の舟に乗って渡れと仰るように、まったらいの舟でもいいです乗って渡らして頂く、神ながらな生き方がでけるようになってる。
ですから又神ながらにお国替え、神ながらに出て来て、神ながらに生きて、神ながらにいわば、この世を去っていく、そして神ながらに又、御霊の世界でおかげが頂いていける。だから今日のご理解を、あの信心で頂きますとそう言う事になるんです。そこでなら、私どもが、神ながらな生き方をしておるかと言う事が、現実の問題。金光様の信心をしておる、けれども果してなら、神ながらな生き方がでけておるだろうかと。
神ながらな生き方というのは、もう嬉しゅうして楽しゅうして、愉快でというのじゃないかと思うです。例えば雨の降る日はしゅるしいと。いうまあ相場がそういうふうに雨の日はしゅるしいと、ところがその雨の日もしゅるしゅうない、傘を持ちレインコートを着て長靴を履いて、雨の中をそれこそすたすたと歩いていく。そのなんというか、まリズム感とでも申しましょうか、また楽しいものだという事なんです。傘も持たんレインコートもない、足は濡れる冷たい、なるほどそれならしゅるしいです。
傘があり、レインコートがあり長靴があり、もう雨の中をほんとにお恵みの雨として受けて行けれる生き方があるんです。先日あの杉さん所の、杉清子さんの里のお母さんの式年祭が、昨日一昨日、一昨昨日でしたかね御座いました。ちょうど五年経っておられましたから五年のいわば式年祭で、まぁ大変もうほんとに行き届いたお祭りでした。五年経たれたから、どういう御霊の働きと言うか、生活がおできになっておられるだろうか、五年経たれた、生前から大変熱心な信心をしておられました。
もういわば私共が、知っておりますだけでも何十年、三井教会に始め御神縁を頂いて、大変おかげを頂いた方です。合楽がここへでけたから、合楽にまあ熱心にお参りなさっておられた。ですから信心をもって、いわばあの世に行っておられるのですから、あの世でも矢張り信心の修行が続けられておる。亡くなられて五年になる。五年の間にどういう信心修行を身に付けられたであろうか、どういう御霊の位も進んでおられるだろうかと、思わせて頂きましたら、あの冬山を頂くんですね。
雪がいっぱいこう降っている、なだらなこうこう山そしてあの山と山の間は、こう谷間のような、そこのスキーのあのスタイルでね、しかも若々しいんです。そしてそのもう実に愉快にそこをサーっと滑って、それから谷間のとこをぱーっとジャンプして、次の方へ、り渡って行かれる様子を頂きました。冬の日もまた雪の日もまた楽しい、と言う事になるのじゃないでしょうか。
次には夏山を頂きました。それもあのわかわかしい姿であのリュックをかついで、汗を流しながら、登山をしておる姿を頂いた。はあもうこの暑いこの世は地獄と、と言う様なこの世はもう、苦のせかいだこの世は地獄だと言う様な、思いですごしておる人も沢山あります。だから信心してお願いしよるお参りしよる、と言う人もあります。ね、だから結局信心というのを苦しいからするんだと言う様な信心の間は、だからおかげにそういうおかげになりません。
昨日も私、夜遅うここへ出て参りましてから神様へお願いさせて、あの御祈念中に頂く事がね、例えばあの便所に行きたい、もう小便に行きたい、大便に行きたいとい言う様な、状態で御祈念をしたっちゃね、神様には通じんと仰る。心に苦しい事がある、悩みがある、もうそのことはいっぱいで、いかに御祈念をしてもです、神様には通じませんです。 もちろんお取次ぎのおかげによって、おかげは頂きますよ。
だからそういう苦しいからお参りをするというのは、そういうおかげだけであって、いうなら、楽しい事も愉快なこともないのです。この暑いのにこんな重いものを担いで、どうしてこげな山に登らんならんごたる運命に生まれついておるだろうか、と言うたらもう苦しいんです。信心とはですそこにいうならば、スキーならスキーの道があるのです。高いとこを極めていく、いうならば喜びがあるのです。
どんなに大きなリュックを担いでも、それこそ汗を流しながらでも、その頂上を極める事がもう、楽しくて楽しくてと言う生き方があるんです。そういう生き方がでけるための、信心修行が今、例えば苦しいなら苦しい時に、なされておかなければ、身に付けておかなければいけません。そしておかげを頂いたら、その後はもう楽しゅうして、愉快で有難うしてと言う、私は生涯を送らせて頂ける様におかげを頂きたい。
決して雨がない風がないと言う事じゃありませんけれども、雨もまた楽しいと頂けれるような信心。それには雨靴もいりゃレインコートもいりゃ、傘もいると言う事です。杉さんのお母さん、北川さんとと申した、その北川のおばあちゃんがもう生き生きと若々しゅう、若返ってそしてならば、生前信心させてもろうた信心の道を会得さして頂くと同時に、最近合楽で言われる合楽理念、御霊ながらに、いわば私共はそういう苦しみ苦痛なことが、ありますから、ね。
合楽理念をいかに聞いておっても聞いておっても覚えない。体得しない合楽理念ちゃどげな事ですか、と例えば聞かれても説明もでけない。第一覚えようと思うていない。所がその魂の世界に行って、信心の言うならば向上を願っておる御霊たちはもう、いうならばも御霊の助かりの事だけしか考えていない。ね、生活がかかっていないわけなんだ、いうならばだから楽しみだけの事に本気、一生懸命になる訳なんだ。そして魂を清め光を頂かなければ、この世は闇だと言う様なのがあの世ですから。
本気で合楽にご縁を頂いておる御霊たちは皆その、合楽理念に基づいて御霊ながらの修行が、でけております。昨日も伊万里の竹内先生のとこのお父さんの、今日が大体はあの帰幽日です。ですから、昨日ご夫婦で参って見えて、日曜でしたから、それであの今日まあ、四時の御祈念にあわせて御霊に挨拶してくれというとであったから、そうさせて頂く積りでおりました。
けれどもまあここで色々あの、おられるうちに一日御取りこしをして、今日して頂くならば、あの私どもがこうやってあの、来ておる間にと言うので、あのお届けを御座いました。そしたらね、やはりあの神様にも御霊様にもご都合があるわけです、その親指とこの人差指の間に紫の花をこうやって挟んだ所を頂いて、そのお取り次を願われたら、この親と子の人差し指が、こうやてつながる所を頂いた、中の花が動かなくなったと言う事。はあ神様と人間とのいうならば、話し合い相談合いがでけた。
それでこんな訳で御座いますから、一日早く取り越させてもろうて、あの今日御霊様にご挨拶させて頂くと言う事を、まぁお許しを頂いた訳です。あれがね御霊様の例えば、あの、おとり越しなんかする時には、必ずそういう一つの、約束がありますから、ね、何日に繰り上げさせて頂くと言うと、神様がそこに繰り合わせをして下さる。いきなりさんぱちしたっちゃいかん、神様には神様のちゃんとご都合がある。人間の世界と一つも変わらん。御霊ももう明日、そのお祭りを受けると思うておるとですから。
あのなんというですかあんまり手を入れて、鉢植えじゃ無いけれども、普通の菊の花の葉が真っ黒黒々とした、その葉があの付いた菊の花を、もうあの葉を取る暇もない、枝振りを直す暇もないと言ったような花が、ぽんとこう投げ入れふうに入れてあって、それは又何とも言えん、あの味わいで花が入れてある所を頂きました。まあいうならけたたましい事だったから、葉も取る暇もないかったごたあるけれども、そのむしろ野性的な素晴らしい花の味わいというものが出ておるという、うならば。
昨日帰幽祭をさせて頂いたんです。そしてあの、大変御霊様が大変あの、お酒がお好きだったそうですけれども、あの私が頂きます事が、御霊ながらどういう働きがでけておるかと言うと、もう大変好きであったものが嫌いになって、いわば、ね、あのお酒が好きであったのが、かえって甘いものがこの頃好きになったというくらいに、御霊様が変わっておられるという事を頂きました。
と言う事はですどう言う事かというとね、人間が二人見るように変わったと言う事なんだ。いうならば魂を清める修行をなさっておられるから、いうならば甘いものも辛いものも、丁度適当に頂けるようないわば改まりもでけた、修行もでけたと言う事ではないかというてお話した事でした。皆さんでもそうです、信心させて頂いたら何でもが丁度整うた。足ろうた。いうならおかげを頂かなきゃならん。
健康じゃあるけれどもお金がない。お金はあ沢山あるけれども不健康、いやあれもこれもそろうとるけれども、うちはがスムーズに行かない。それではいけないでしょう。昨日、中島の上滝さん達が一家中で、孫達それから息子達、嫁ご皆でお参りさせて頂いてから、ここで一番口お届けさせて頂くのが、どう言う事かというと、もう先生この頃家では、こうして皆が集まりますと、今度の十年祭には、皆んなどげなおかげ頂くの、というお話でもうほんとに楽しゅうして有り難いというんです。
あなたん方はどうしてそげん円満にいくの、ち人から言われるくらいに、あのおかげで、ね、私十年祭の話をすると皆が十年祭のお話をしてくれます。孫達も総一郎に徳蔵に、サジロウです。もう合楽の小型のような感じがする。おかげで健康でお金の不自由はない。しかも家庭が円満。もう嫁御が今度、昨日運転免許をもらったというて、あの免許証を持って、お礼に出て来たんですけれども、もうまいっちょ上にばあちゃんがおんなさいます。もうくん十やがて近くでしょう。
のおばあちゃんが今度敬親会には、その嫁ごのね孫の嫁の自動車でお参りがでけるちゅうて楽しみにしとりますとこういうのです。もうほんとにそればってん上滝さん、ほんとにあのお父さんが亡くなって大変な一時は苦労でもあった、難儀でもあったけれどもお父さんが徳どん忘れちゃならんよと、昨日の御理解じゃ無いけれども、ね、それこそ荷物だけいくよに馬は茅の影、であってあんたどんがいま、ほんとに何も不自由しないおかげを頂いてというておる、息子達も皆出来がようておかげを頂いておる。
健康で一切に恵まれておると言う事がです、唯自分達のやりようがよかけんでとでも思うたら間違うぞよと、いかにも荷物だけ行くようにあるけれども、その下に馬がちゃんとおって、馬が運んでくれておるんだよと、お父さんの御霊はとも疎かに、いえ疎かにどんするだんじゃありません、もういつもお父さんの、矢張り御霊様のおかげでというて、もうほんとに、そうだろうと思うようなお届けを致します。
足うておるですというてなら、雨がない風がないかじゃないですけれども、その受け方が素晴らしいです。ね、そりゃぁすぐ大和さんとこの向かいにおりますから、大和さんが一番ご承知でしょうけれども、人は色々言う所もありましょうけれどもです、がしかし一家中が信心に固まって、いうならばなら十年祭十年祭と言や、皆んながほんとに十年祭には、というふうに話しがでけるという程におかげを受けておるという。
今日は私は皆さんにね、神ながらに出て来て、神ながらに生きて、神ながらにいわば、この世を去らせて頂いて、又神ながらにあの世でおかげを頂くと言う事を、聞いて頂いたんです。そこでなら我がそれがわがまま勝手な生き方では、それこそこの世は苦の世、苦の世界であったになって、そして又日柄も何にも言わずに駆けっていぬると言う事になり、日柄方位いうならば、窮屈な窮屈ないやこれは日柄方位だけの事じゃありませんよ。お金に窮屈物に窮屈全てに。
いうならばこの世は苦の世、世の世界で終わっていく人達の姿と、信心を頂いて神ながらに出て、神ながらな生き方をすると言う事なんだ。ね、その神ながらな生き方をすると言う事が、合楽理念なんです。いうならばそれを今日は、御霊様の例をもってお話しました。夏山も冬の山も又雪の日も、暑い炎天の日も楽しいんだと、雨の日もまた愉快だと、そういう生き方を私は微に入り細にわたって解いてあるのが、合楽理念だと思うです。苦しいけれども有り難い。
いうならこの世を神ながらに嬉しゅう、楽しゅう愉快に過ごしていけて、そして神ながらに果てていけれる、神ながらにあの世でまた御霊の世界に入っても、合楽理念に基づいた信心修行がでけて、それこそ光り輝く世界に又住むこともでけると言った様なおかげ。今日の御理解の所をです、このご理解をひっくり返して頂いたら、今日は皆さんに聞いて頂いた様な事になるのです。ね。それこそどんなに知者だ徳者だというてもです、生まれてくる時には、ね、日柄も言わずに出てきておりながら。
途中ばかりを日柄の方位のというて、神ながらな生き方ではなくて、不自然な生き方をする。だからまた死ぬるときにも、だから例えばねここで皆さんが生まれると言う事もお願いをしてお取り次を頂いて、死ぬる時にもやはりお取り次を頂いて、もうほんとに神ながらな生まれ。はあもうほんに昨日どん生まれとるならば、大変な色んな事情があったのに。もう万事万端ご都合お繰り合わせを頂いて丁度よか時に生まれたと言う様な、神ながらに生まれる事の出来れるおかげ、そしてなら神ながらに、ね。
あちらこちらにも迷惑をかけられないときにいうならば、有り難い有り難いという中に、お国替えのおかげを頂かれる様な、ためにはその真ん中を神ながらな生き方をしなければならないと言う事です。んなら神ながらな生き方とは、楽しゅうして嬉しゅうして、有り難うて愉快で、という生活がでけるんだと、というて。なら神ながらな生き方の中には、雨も降らんか風も吹かんか、夏も冬もないか、春やら秋のごたあるこつばっかりかというと、決してそうじゃない。
けれども冬には冬暑い時には暑い時の、生き方があるんだ。それを合楽理念は、解くのだ。いわば楽しゅう有り難う、自分も力が付いて行く事が分かる。登山をする頂上を極めると言う事がこんなに愉快な楽しいものだと、いや冬山でも雪が降るとは、楽しみで待とうごとあるいうならば、生き方もあるんだと言う事をです、私共の人生の中に頂きこんでいく。そこに私は本当の意味においての、神ながらな信心生活があると思いますよね。
どうぞ。